■ ■ ■ 呪縛(002)
私が勤めるこの会社は『ワイズコーポレーション』という。
社長は柚澤航平。この柚澤光征専務は社長のご子息様なのだ。海外とのやりとりも多いため、社長は月のほとんど海外出張している。そして、国内での代理人を専務が兼ねている。副社長もいるのだが、彼は経営よりも現場を好む人で、対外面に関しては柚澤親子に一任して、自分は現場統括責任者と称して、今も第一線の現場で働いている。
四階にある情報システム部のドアを潜ると、水木はデスクに座って自分のパソコンをいじっていた。
「水木さん! 社長室に行ってくださいよ!」
「あのドラ息子に付き合えるかー!」
「そんなこと言わないで。私には手におえません」
「いいからOS再インストールして、ネットワークに繋げるようにだけしてこい」
「水木さーん!」
あまりに投げやりな水木に、泣き言を言ってしまう。だが、水木も頑固者だ。
結局、水木が所有していた社長用パソコンのCD−ROMやらIDなどを記載した書類を挟んだファイル一式を手渡され、十二階に向かう破目になった。
秘書室に桧村の姿はなく、恐る恐る社長室をノックした。
「どうぞ」
中から聞こえたのは桧村の声だった。
「失礼します」
応えてからドアを開ける。桧村は応接セットの横に立っており、ソファに座った専務が手にした資料を眺めていた。
「気にせず進めてください」
「はい」
情報システム部の場合は、交替で夜勤と日勤の人員を割り振っているが、社長業というものはそうはいかない。こんな時間までまだ仕事なんだ、と少しばかり感心した。資料を追う視線は真剣そのもので、さっきまでのふざけた様子は微塵も感じられない。そうでもなければ、いくら社長の息子といっても専務などという仕事を任されはしないか。
CD−ROMを挿入し、OS再インストールから始める。
パソコンの初期セットアップというものは、表示される画面に従って選択肢を選ぶだけだ。パソコンが自動的にファイルを読み込んでいる間はすることがない。つい、専務と桧村のやりとりを観察してしまった。
ピピッとパソコンから電子音がして、次の指示を求めてくる。
屈んでキーボードを叩き、次へと処理を進める。
体を起こすと、二人の視線がこちらを向いていた。
「座っていいんですよ?」
桧村に言われたが、最初は何のことかわからなかった。それを察したのか、すっと椅子を指差した。
「ああ・・・。いえ、このままで大丈夫です」
座って作業しろと言っていたのだ。ずっとキーボードを叩くのであれば、座らせてもらって処理するが、これくらいの作業であれば普段から椅子に座ったりはしない。特にトラブル時は、パソコン利用者がその場に座っていて、その横で画面を覗き込みながら対応するから、立ったままでいることには慣れている。
それでなくとも、この椅子には座りたくない。否、恐れ多くて座れるはずがない。
「・・・そうですか? やりやすいようにやってください」
「はい。有難うございます」
情報システム部などと大層な部署名はついているけれど、所詮はパソコン・ネットワーク関係の雑用係だ。デザイン全般を取り扱うこの会社では、裏方的な仕事ととられる傾向にある。
桧村はさすが秘書室長だけあって、こういった気配り上手い。女性同士ならば「座って」と椅子を差し出されることも多かったが、男性社員はこちらがやってくれるのが当たり前と思っている人が多い。この会社は社長の柚澤が起こした会社で、まだ若い社員が多いのに、それでもそういった差別的な部分はある。これが古い会社や公務員などの固い職場だったら、もっと酷いんだろうなと思う。
そんな日本人気質が大嫌いだ。
その点、桧村の態度に好感を覚える。秘書だからなのか、彼の気質なのかはわからないけれど、人気があるのも頷ける。女なら誰だってレディファーストに憧れるのだ。
「あの、柚澤専務」
「ん? 何?」
こちらは逆に、あからさまに見下しているような気がする。それでも、仕事なのだから言うべきことと聞くべきことはやらなければ。
「バックアップは取られました?」
黙り込んだ専務に、桧村が冷ややかな視線を投げた。
「・・・取ってないのか?」
「・・・ない」
「取らずに、初期化したのか?」
「・・・・・・」
険悪な空気が流れはじめたので、思わず口を挟んでいた。
「あ、あの! 通常、ネットワークドライブにファイルを保存されているはずですから、それらのファイルは大丈夫です」
私の言葉で、ようやく桧村も思い出したと言わんばかりに納得顔になった。
「ああ、そうですね。ファイル共有してますからね」
「はい。ですが、このパソコンのローカルドライブに保存されていたものは・・・」
ちらりと視線を専務に向ける。彼はまた不機嫌そうにそっぽを向いた。
「消したんだな、お前」
「うっせー!」
本当に、どちらが上司なのかわからない。遊びたがりの専務と、スパルタな秘書。そんな構図が浮かぶ。
いつの間にか、二人のやりとりに小さく笑みを漏らしていた。
光征と桧村が揃って社長室から出て行った。
一人取り残された室内を、今更のように眺め回した。すごい調度品だ。
ピピッと次を催促されて、視線を戻す。表示された選択肢を選び次へ進める。ファイルのコピーが開始された。これには十分ほどかかるはずだ。
誰もいないのをいいことに、ふーっと腕を伸ばして深呼吸した。
くるりと振り向くと、悪趣味と罵ったレインボーブリッジが光っていた。そして、その斜め上に満月とおぼしき月が浮かんでいる。本来ならば、夜空を煌々と照らしているはずの月明かりが、ここでは酷く頼りない。
「満月も形無しね」
しばらくそうやって外の様子を眺めていた。
こんな時間でも、明かりが消えることはない。同じように夜を明かしている人は、どれくらいいるのだろう。
そんな感傷的なことを考えてしまうから、夜は嫌いだ。
ガチャリと音がして、振り向くと桧村が入ってくるところだった。
「終わられましたか?」
「いえ。ファイルのコピー中なので、待機です」
「ああ、そうですか」
「まだ一時間ほどかかると思います」
「一時間・・・ですか」
「はい」
「・・・じゃあ、光征はこのまま少し寝かしとこう」
桧村の言葉に、えっ?と思うと、ソファに転がっている専務の姿があった。
うわっ。いつから寝てたんだろう?
だって。さっき、二人で部屋から出てったよね・・・?
入ってきたところ、見てないよ。外を見てたときかな? だとしたら、サボってると思われてたりして・・・。
ぐるぐると巡る思考が定まらない。
だが、桧村はこちらの様子は気にせずに専務が座るソファとは反対側に座り、資料を再チェックしはじめた。
「終わりました」
OSの再インストール、ネットワークへの接続、メールの設定などをひと通り終えると、桧村に声をかける。
桧村は軽く専務の体を揺すって起こした。
この人たち、こうやって細切れにしか眠ってないのかしら。
自分たちもシステムの立ち上げ時などは徹夜することだってあるが、それは一時的なもので。社長や専務ともなれば、それが毎日なのかもしれない。睡眠時間、どのくらいなのだろう?と、いらぬ心配をしてしまった。
まだ、寝ぼけた様子の専務の前に一枚の紙を差し出す。
「パスワードがすべて新しく割り振ってますので、必要でしたら覚えやすいものに変更してください」
「わかった」
短く答えて紙を横へずらすと、先に見ていた資料に視線を戻してしまった。勝手にフォーマットをしてしまうような人だから、変更方法なども心得ているだろう。それでなくても、システムでは三ヶ月ごとにパスワードの変更を求めるようになっている。社長用のパソコンだと言っても、それは同じだ。
「他、インストールしていたものがありましたら、明日にでもまた水木に言ってください」
特別仕様が一体全体どんなものだったのか、結局は聞いていない。水木に渡された資料類にも特記されてはいなかった。
「わかった」
同じ言葉をもう一度言っているが、本当にわかっているのかは不明だ。
横で桧村が苦笑を漏らしていたから、彼には伝わっただろう。
「正輝、コーヒー、頼む」
「はい」
「思いっ切り、濃いヤツ」
「了解」
桧村が社長室から出ようとするのとあわせて部屋を出ようとすると、桧村に呼び止められた。
「星野さんの分もコーヒーを淹れてくるから、飲んでいって」
「え、あの、でも」
「大丈夫。コーヒーくらい飲んでもらわないと、割に合わないから」
確かにそうかもしれないが。
できれば、今すぐにでもこの部屋を出たかった。
押し戻されてしまい、所在無げにドアの前に立ち尽くした。専務と二人きりで取り残されたが、彼は私がいることなど気にもしてないように、手元の資料を読み耽っている。
自分のことを認識されたくないと思っているくせに、彼の態度に失望している自分がいる。きゅっと唇を噛んで俯いた。
一方的に柚澤親子のことを知っている。思わず、この会社の入社試験を受けていた。就職難のこのご時世に、まさか採用されるとは思ってなかった。通知が来たときは悩んだけれど、他に受けていた企業から軒並み不採用の通知を受け取ってしまったから、戸惑いながらも入社した。
目立たず、ひっそりと、地味に。それらを合言葉のように今まで仕事してきた。与えられた仕事はきっちりとこなすが、それ以上の働きもしない。
そんなふうに一年と数ヶ月、この会社で働いてきた。
明日には、またただの一般社員に戻らないと。
息を整えて顔を上げたところに、すっとカップが差し出された。
「お疲れさまでした。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
いつの間にか桧村がコーヒーを淹れてくれていた。
「立ってないで、こちらにどうぞ」
ソファに促されて、渋々ながらそれに従う。下手に印象付けるようなことはしたくない。
「お砂糖とミルクは?」
「いえ。ブラックで結構です」
桧村は手にしたトレイを持ってソファに寝転がっている専務の前にも同じようにカップを置いた。
「光征、データぶっ飛ばした分、朝までに仕上げておけよ」
「・・・さすがわが秘書室長サマ。容赦ねぇ」
「懲りたら朝一会議の資料を前日の夜中なんかに作らないことだな」
二人の会話に、この会社、大丈夫なんだろうかと呆れながら、私はこの晩、何杯目かになるコーヒーを飲み干した。
社長は柚澤航平。この柚澤光征専務は社長のご子息様なのだ。海外とのやりとりも多いため、社長は月のほとんど海外出張している。そして、国内での代理人を専務が兼ねている。副社長もいるのだが、彼は経営よりも現場を好む人で、対外面に関しては柚澤親子に一任して、自分は現場統括責任者と称して、今も第一線の現場で働いている。
四階にある情報システム部のドアを潜ると、水木はデスクに座って自分のパソコンをいじっていた。
「水木さん! 社長室に行ってくださいよ!」
「あのドラ息子に付き合えるかー!」
「そんなこと言わないで。私には手におえません」
「いいからOS再インストールして、ネットワークに繋げるようにだけしてこい」
「水木さーん!」
あまりに投げやりな水木に、泣き言を言ってしまう。だが、水木も頑固者だ。
結局、水木が所有していた社長用パソコンのCD−ROMやらIDなどを記載した書類を挟んだファイル一式を手渡され、十二階に向かう破目になった。
秘書室に桧村の姿はなく、恐る恐る社長室をノックした。
「どうぞ」
中から聞こえたのは桧村の声だった。
「失礼します」
応えてからドアを開ける。桧村は応接セットの横に立っており、ソファに座った専務が手にした資料を眺めていた。
「気にせず進めてください」
「はい」
情報システム部の場合は、交替で夜勤と日勤の人員を割り振っているが、社長業というものはそうはいかない。こんな時間までまだ仕事なんだ、と少しばかり感心した。資料を追う視線は真剣そのもので、さっきまでのふざけた様子は微塵も感じられない。そうでもなければ、いくら社長の息子といっても専務などという仕事を任されはしないか。
CD−ROMを挿入し、OS再インストールから始める。
パソコンの初期セットアップというものは、表示される画面に従って選択肢を選ぶだけだ。パソコンが自動的にファイルを読み込んでいる間はすることがない。つい、専務と桧村のやりとりを観察してしまった。
ピピッとパソコンから電子音がして、次の指示を求めてくる。
屈んでキーボードを叩き、次へと処理を進める。
体を起こすと、二人の視線がこちらを向いていた。
「座っていいんですよ?」
桧村に言われたが、最初は何のことかわからなかった。それを察したのか、すっと椅子を指差した。
「ああ・・・。いえ、このままで大丈夫です」
座って作業しろと言っていたのだ。ずっとキーボードを叩くのであれば、座らせてもらって処理するが、これくらいの作業であれば普段から椅子に座ったりはしない。特にトラブル時は、パソコン利用者がその場に座っていて、その横で画面を覗き込みながら対応するから、立ったままでいることには慣れている。
それでなくとも、この椅子には座りたくない。否、恐れ多くて座れるはずがない。
「・・・そうですか? やりやすいようにやってください」
「はい。有難うございます」
情報システム部などと大層な部署名はついているけれど、所詮はパソコン・ネットワーク関係の雑用係だ。デザイン全般を取り扱うこの会社では、裏方的な仕事ととられる傾向にある。
桧村はさすが秘書室長だけあって、こういった気配り上手い。女性同士ならば「座って」と椅子を差し出されることも多かったが、男性社員はこちらがやってくれるのが当たり前と思っている人が多い。この会社は社長の柚澤が起こした会社で、まだ若い社員が多いのに、それでもそういった差別的な部分はある。これが古い会社や公務員などの固い職場だったら、もっと酷いんだろうなと思う。
そんな日本人気質が大嫌いだ。
その点、桧村の態度に好感を覚える。秘書だからなのか、彼の気質なのかはわからないけれど、人気があるのも頷ける。女なら誰だってレディファーストに憧れるのだ。
「あの、柚澤専務」
「ん? 何?」
こちらは逆に、あからさまに見下しているような気がする。それでも、仕事なのだから言うべきことと聞くべきことはやらなければ。
「バックアップは取られました?」
黙り込んだ専務に、桧村が冷ややかな視線を投げた。
「・・・取ってないのか?」
「・・・ない」
「取らずに、初期化したのか?」
「・・・・・・」
険悪な空気が流れはじめたので、思わず口を挟んでいた。
「あ、あの! 通常、ネットワークドライブにファイルを保存されているはずですから、それらのファイルは大丈夫です」
私の言葉で、ようやく桧村も思い出したと言わんばかりに納得顔になった。
「ああ、そうですね。ファイル共有してますからね」
「はい。ですが、このパソコンのローカルドライブに保存されていたものは・・・」
ちらりと視線を専務に向ける。彼はまた不機嫌そうにそっぽを向いた。
「消したんだな、お前」
「うっせー!」
本当に、どちらが上司なのかわからない。遊びたがりの専務と、スパルタな秘書。そんな構図が浮かぶ。
いつの間にか、二人のやりとりに小さく笑みを漏らしていた。
光征と桧村が揃って社長室から出て行った。
一人取り残された室内を、今更のように眺め回した。すごい調度品だ。
ピピッと次を催促されて、視線を戻す。表示された選択肢を選び次へ進める。ファイルのコピーが開始された。これには十分ほどかかるはずだ。
誰もいないのをいいことに、ふーっと腕を伸ばして深呼吸した。
くるりと振り向くと、悪趣味と罵ったレインボーブリッジが光っていた。そして、その斜め上に満月とおぼしき月が浮かんでいる。本来ならば、夜空を煌々と照らしているはずの月明かりが、ここでは酷く頼りない。
「満月も形無しね」
しばらくそうやって外の様子を眺めていた。
こんな時間でも、明かりが消えることはない。同じように夜を明かしている人は、どれくらいいるのだろう。
そんな感傷的なことを考えてしまうから、夜は嫌いだ。
ガチャリと音がして、振り向くと桧村が入ってくるところだった。
「終わられましたか?」
「いえ。ファイルのコピー中なので、待機です」
「ああ、そうですか」
「まだ一時間ほどかかると思います」
「一時間・・・ですか」
「はい」
「・・・じゃあ、光征はこのまま少し寝かしとこう」
桧村の言葉に、えっ?と思うと、ソファに転がっている専務の姿があった。
うわっ。いつから寝てたんだろう?
だって。さっき、二人で部屋から出てったよね・・・?
入ってきたところ、見てないよ。外を見てたときかな? だとしたら、サボってると思われてたりして・・・。
ぐるぐると巡る思考が定まらない。
だが、桧村はこちらの様子は気にせずに専務が座るソファとは反対側に座り、資料を再チェックしはじめた。
「終わりました」
OSの再インストール、ネットワークへの接続、メールの設定などをひと通り終えると、桧村に声をかける。
桧村は軽く専務の体を揺すって起こした。
この人たち、こうやって細切れにしか眠ってないのかしら。
自分たちもシステムの立ち上げ時などは徹夜することだってあるが、それは一時的なもので。社長や専務ともなれば、それが毎日なのかもしれない。睡眠時間、どのくらいなのだろう?と、いらぬ心配をしてしまった。
まだ、寝ぼけた様子の専務の前に一枚の紙を差し出す。
「パスワードがすべて新しく割り振ってますので、必要でしたら覚えやすいものに変更してください」
「わかった」
短く答えて紙を横へずらすと、先に見ていた資料に視線を戻してしまった。勝手にフォーマットをしてしまうような人だから、変更方法なども心得ているだろう。それでなくても、システムでは三ヶ月ごとにパスワードの変更を求めるようになっている。社長用のパソコンだと言っても、それは同じだ。
「他、インストールしていたものがありましたら、明日にでもまた水木に言ってください」
特別仕様が一体全体どんなものだったのか、結局は聞いていない。水木に渡された資料類にも特記されてはいなかった。
「わかった」
同じ言葉をもう一度言っているが、本当にわかっているのかは不明だ。
横で桧村が苦笑を漏らしていたから、彼には伝わっただろう。
「正輝、コーヒー、頼む」
「はい」
「思いっ切り、濃いヤツ」
「了解」
桧村が社長室から出ようとするのとあわせて部屋を出ようとすると、桧村に呼び止められた。
「星野さんの分もコーヒーを淹れてくるから、飲んでいって」
「え、あの、でも」
「大丈夫。コーヒーくらい飲んでもらわないと、割に合わないから」
確かにそうかもしれないが。
できれば、今すぐにでもこの部屋を出たかった。
押し戻されてしまい、所在無げにドアの前に立ち尽くした。専務と二人きりで取り残されたが、彼は私がいることなど気にもしてないように、手元の資料を読み耽っている。
自分のことを認識されたくないと思っているくせに、彼の態度に失望している自分がいる。きゅっと唇を噛んで俯いた。
一方的に柚澤親子のことを知っている。思わず、この会社の入社試験を受けていた。就職難のこのご時世に、まさか採用されるとは思ってなかった。通知が来たときは悩んだけれど、他に受けていた企業から軒並み不採用の通知を受け取ってしまったから、戸惑いながらも入社した。
目立たず、ひっそりと、地味に。それらを合言葉のように今まで仕事してきた。与えられた仕事はきっちりとこなすが、それ以上の働きもしない。
そんなふうに一年と数ヶ月、この会社で働いてきた。
明日には、またただの一般社員に戻らないと。
息を整えて顔を上げたところに、すっとカップが差し出された。
「お疲れさまでした。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
いつの間にか桧村がコーヒーを淹れてくれていた。
「立ってないで、こちらにどうぞ」
ソファに促されて、渋々ながらそれに従う。下手に印象付けるようなことはしたくない。
「お砂糖とミルクは?」
「いえ。ブラックで結構です」
桧村は手にしたトレイを持ってソファに寝転がっている専務の前にも同じようにカップを置いた。
「光征、データぶっ飛ばした分、朝までに仕上げておけよ」
「・・・さすがわが秘書室長サマ。容赦ねぇ」
「懲りたら朝一会議の資料を前日の夜中なんかに作らないことだな」
二人の会話に、この会社、大丈夫なんだろうかと呆れながら、私はこの晩、何杯目かになるコーヒーを飲み干した。
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