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2008.04.30 Wednesday

呪縛(001)

わたしのなまえ
■057.はじまりの鍵穴

 窓の外には『宝石を散りばめた』とか『地上の星』などと称される煌びやかな夜景が広がっていた。
「まがい物を見て、何が楽しいんだろう」
 嘲笑を含んだ笑みを零すと、私はコーヒーを一口飲んだ。夜景が見たいわけではないけれど、夜勤の間、一人になりたくなるとこの場所に足を運ぶ。日中や宵のうちは眺めの良さに人が多いこの休憩室も、さすがにこの時間では訪れる者もいない。夜の十時になると、ビル内の不要な箇所は電源が落とされる。この休憩室に至る廊下もそのひとつ。途中の暗闇さえ怖くなければ、一人でゆっくりできる絶好の場所だった。
 夜半過ぎのビル内は静寂に包まれている。他のフロアでは二十四時間稼動している者たちもいるが、その喧騒も会議室の並ぶこの十一階のフロアまでは届かなかった。
 今日は大きなトラブルもない。かねてから滞っていた書類の整理も済ませることができたし、有意義な夜勤になった。酷い時は朝までトラブル対応に追われて、自分の仕事を進めることができない。夜勤を嫌う人の方が多いけれど、邪魔者がいないこの時間の方が好きだった。
 午後三時のおやつの時間ならぬ、午前三時の小休憩には濃い目のコーヒーがよく効く。
 見るとはなしに目の前の夜景を見下ろしていると、ポケットの中の携帯電話が振るえた。
 どうやら、休憩はここまでらしい。
「星野です」
「ああ、星野君? 休憩中、悪いね」
「いえ。何かありました?」
 会話の合間に残りのコーヒーを流し込む。
「それが、秘書室から呼び出しがかかってさ」
「秘書室? 社長室は水木さんが担当だと思うのですが?」
 我が社で秘書室といえば社長室と直結だ。なぜなら、社長以外に秘書がついていないからだ。それに、社長室のパソコンは特別仕様になっているとかで、組んだ水木がメンテナンスも全て行っていた。他のものに触らせないという意味ではなく、他のものが触れない状態だと聞いている。
 今晩の夜勤は私と電話をかけてきた川端と水木の三人。水木がいるのだから問題ないはずなのに。
「・・・それが、水木君、サーバ室でハマっちゃってて。手が離せないから星野君に頼んでくれって」
「では、私がサーバ室の作業を代わればいいのではないでしょうか?」
「それも面倒だし。星野君は秘書室に行って」
「でも・・・」
 反論はそこで途絶えた。川端が「よろしくねー」と軽く言って電話を切ってしまったからだ。
 社長室なんて、一般社員が足を踏み入れることはないと思っていたのに。入社二年目のまだまだひよっこな自分などに任せていいのか。そんな疑問が浮かぶが、行けと言われたからには行かなければならない。
 最後にカップに残っていたコーヒーを口に含むと、酷く苦い味がした。

 社長室などの重役室はこのビルの最上階・十二階に連なっている。
 地位の高いものは、他のものを見下すために高い位置に部屋を置くものよね。皮肉の言葉しか出てこない。エレベーターを待つのも面倒で、非常階段で十二階へと向かった。
 そっとドアを開けると、廊下にはパンプスのヒールが埋もれてしまいそうなくらい長毛の絨毯が敷き詰められていた。ここからして、すでに対応が違う。自分がそういう対応をされたいというわけではないけれど、格差を見せ付けられたようで気が重い。
 エレベーターホールの向こうから漏れている明かりを頼りに歩いていく。いくら重役用フロアと言っても、この時間まで仕事をしている重役などいないだろう。どこかの料亭で飲み潰れていることはあるかもしれないけれど。
 廊下と区切られてはいるけれど廊下に面した部分はガラス張りになっていて、受付ブースに似た窓がある。ここが秘書室のようだ。
「すみません。情報システム部の星野ですが」
 明かりが灯っているのだから人がいるはずだ。声をかけると奥のパーテーションの影から、男性が顔を出した。真夜中過ぎだというのに、爽やかな笑顔を浮かべた会社一と言われるイケメン。さすがに私でも知っている。秘書室長の桧村だ。遠目では何度か見かけたことがあったけれど、こんな間近で見るのは初めてだ。
「こんな時間にすみません」
「いえ。二十四時間対応ですから、問題ありません」
 柔らかな物腰で頭を下げられて、こちらも慌てて頭を下げる。
 確か、三十歳近かったと記憶している。笑いかけられただけでクラクラするという女子社員の気持ちがわからなくもない。営業職とか表に出る仕事をさせるほうがいいのではないか。
「そう言ってもらえると助かります。今日は水木さんは?」
「あ、すみません。水木が手が離せない状態で・・・。代行を依頼されました」
「そうですか」
「でも、私で大丈夫なんでしょうか・・・?」
「え?」
「社長用のパソコンは特別仕様になっているとお聞きしているものですから」
 若く、しかも女性とくれば、どうしても頼りなさを感じられることが多い。年配の男性などは、あからさまに『男をよこせ』と言うものもいる。これくらいなら自分でも対応可能なのにと思いながらも、一礼して場を去ったことも一度や二度ではない。
 不安げに取られてしまったかもしれない。水木に代われと言われるかもしれないと、桧村を見上げると、彼は意味ありげにくすっと笑った。
「大丈夫だよ。『特別仕様』と言ってもたいしたことないから」
 やっぱり特別仕様になっているパソコンがあるんだ。水木さん、マニアックだしなぁ・・・と、ここにいない上司の厚底眼鏡を思い出した。
「じゃあ、こちらへ」
「はい」
 桧村はデスクの上からいくつかのクリアファイルを手に取って、秘書室のドアから出てきた。歩き出した背中を追おうとすると、すぐ向かいにあるドアをノックした。見ると『President Room』と書かれている。目の前だったとは。これじゃあ、話し声が聞こえていたかもしれない。
「光征、情報システム部が来てくれた」
 ノックの応えも待たずに、桧村はドアを開けた。
 ちょっと、待って。今、何と・・・。
 聞こえてきた名前に、ぎくりと動きを止めてしまった。だが、桧村はそのままドアを開いて立ち止まり、視線で『入って』と促している。挙動不審に思われるくらいにぎくしゃくとした動きで、社長室の中へと足を踏み入れた。どうか、桧村の目には緊張で強張っているのだと映りますように。
 念じた願いが届いたのか、桧村は一歩入ったところで立ち止まっている私を追い越して、正面の大きなデスクに向かった。
 目に飛び込んできたのは、そのデスクの後ろに広がる夜景だった。先ほど、一階下の休憩室から眺めていたものとは、見える方向が違う。レインボーブリッジだ。趣味が悪い、と思わず胸の中で呟いた。
「水木! 遅いじゃねーか」
 声はそのデスクからではなく、横方向から聞こえてきた。
 ぎくしゃくとしたロボットさながらの動きのまま顔を向けると、スウェットパンツに上半身裸といういでたちで、濡れた髪をタオルで拭きながら隣室から入ってきた男がいた。
「きゃっ・・・」
 短く声をあげて、反射的に顔を背ける。
「こらこら、そんな格好でうろうろするなって」
「・・・水木じゃないのか?」
 多分、自分に向けられているであろう視線を感じながらも、顔を向けないまま名乗る。
「情報システム部の星野と申します。水木が所用で手が離せませんので、代わりに参りました」
「あ、そう」
「・・・光征、レディの前だ。何か羽織ってきてくれ」
 桧村にレディなどと言われて、更に頬が赤くなる。
「自分の部屋なんだから、好き勝手していいだろ」
「お前の部屋じゃないだろう? 社長の部屋だ」
「変わるか」
 ぶつぶつと文句の言葉を言いながらも、出てきたドアへと戻っていくと数分でジーンズとTシャツに着替えて戻ってきた。
「ごめんね、不快な思いさせちゃって」
「い、いえ」
 こちらの動揺など気にもしないというふうに、彼は応接セットのソファに座ってタオルを動かし続けていた。
「星野さん、じゃあ、お願いできますか?」
「あ、はい」
 桧村に呼ばれて慌ててデスクに駆け寄る。
 広々としたデスクには、三台のディスプレイが置かれている。マルチディスプレイで使用しているようだ。気持ちを仕事モードに切り替えて、ざっと周辺に目をやる。見たところ、ディスプレイ以外に取り付けられている周辺機器もないし、とりわけ特別仕様になっているようには見えない。
「普通のパソコンだからね」
 訝しんでいたのが伝わったのか、桧村は先ほどと同じような笑みを見せてパチンと電源スイッチを入れた。
 画面に表示されたのは、MS−DOS画面。久しぶりに見た。
「・・・・・・」
 言葉もなく固まってしまう。
「ね? 普通のパソコンでしょ?」
「は、はぁ・・・」
 見事にフォーマットされてしまっている。犯人は彼なのだろうか。これじゃあ、水木がサーバ室から出てこないのも納得だ。苦労して構築したマシンをまっさらにされてしまったのだから、不貞腐れたくもなる。
「すみません。一度、部署に行って必要なものを準備してまいります」
「そうですね。お願いします」
 ぺこりと頭を下げて、社長室を出た。
 川端も人が悪い。電話をくれた時点でこの状況がわかっていたはずなのに。
 でも、一旦席を外すことができたことが有り難かった。不意をつかれた心を静めるにはちょうどいい。
 逃げるように足早に非常階段に続くドアを開けた。
 カチャンとドアが閉まる音を聞いた途端に、全身から力が抜けた。
「・・・緊張したぁ」
 階段の段差にそのまま座って、はーっと深呼吸をする。
 私は、柚澤社長親子のことを非常に私的な理由で知っている。
 だが、その逆はない。向こうは私のことなど一社員としてしか知らないはずだ。社員数が多いのだから全社員の名前と顔など覚えていないだろうし、覚えられるほど目立ったこともしていない。
 そうとわかっていてもかなり緊張していたらしく、しばらく足ががくがくと振るえて立ち上がることが出来なかった。
「でも、これで覚えられたかもしれないな・・・」
 大丈夫。しっかりしなきゃ。こんな挙動不審でどうする。
 パシッと両頬を叩いて自分に気合いを入れると、時間稼ぎをするかのようにゆっくりと階段で自分の部署のある四階まで下りた。

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