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2008.07.11 Friday

傷だらけの僕ら 本編01

遠雷はスタートの合図
 少しずつ春めいてきて、寒さに凍えた冬のことなど遠い昔のように感じるようになった三月の終わり。忘れるなとでもいうかのように、名残り雪が大地を覆い隠した。
「うわっ・・・。寒っ・・・」
 玄関を出て、翔は思わず身震いをする。薄手のウィンドブレーカーを選んだことを後悔したけれど、靴紐もしっかりと結んでしまった今となっては部屋まで戻ろうという気にはなれなかった。太陽も僅かながら顔を出していて、陽のあたる場所はもう雪が融けはじめている。これくらいなら少し走れば大丈夫だろう。
 抱えてきたサッカーボールを丁寧に地面に置いて、足の裏で感触を確かめるように二・三度転がす。
 よし、行こう。
 微かに白い息を吐きながら、今年最後になるであろう積雪の中を走り出した。
 向こうに見える山の山頂付近にしつこく残った灰色の雲から、地鳴りのような雷鳴が響いていた。でも、雲は次第に東へと流れていき太陽が勢力を拡大していく。頬を撫でていく風も切り裂くような鋭さはなくなっている。
 春がやってくる。
 豪雪地帯ではないが年に数回は真っ白な雪原になる。
 この町が嫌いではないけれど、雪に覆われたグラウンドではサッカーが出来なくなる。翔にはそれが嫌なのだ。
 早朝の町は、まだ人も車も動き出していない。
 静かな脇道には、翔の足音に反応した近所のゴールデンレトリバーの鳴き声がやたら大きく聞こえる。怖がって吠えているのではなく、遊んでくれと誘っているのだ。朝から元気だよな、と軽く手を振って目の前を通り過ぎた。
 車通りのない県道を横切って『裏山』と呼んでいる烏帽子山へと向かう山道に入る。舗装された道路ではない。地元の人しか通らない獣道だ。山の中腹には神社がある。県道から神社に向かう正式な参道は別にあるが、そこは四百段の石段が待っている。どちらもサッカーボールをドリブルしたまま走るにはいいトレーニングになるコースだ。翔が自主トレのランニングコースに決めているのは、この獣道から上っていき、階段を下りて帰るというものだ。
 土から飛び出た石や木の根っこにボールが跳ねてイレギュラーバウンドする。それを的確にコントロールしていくことで、ボール捌きを鍛えている。
 家を出てから約二十分。うっすらと汗が浮かんできたところで、神社の境内に出た。
 初詣の時以外は、あまり人がいるのを見かけない。寂れているという言葉が似合う場所だ。
 この辺りは、海岸線まで山が迫り出していて、平地がとても貴重だ。主要道路と住宅と。それだけで平地は埋まってしまい、公園や広場といった子供が自由に駆け回れるような場所は存在しない。そういった意味でもこの境内は貴重な広場だった。
 幼い頃、初めてサッカーボールに触れたのもこの場所だった。
 周囲を木々が囲んでいるせいか、境内にはほとんど雪が積もっていない。
 右足で十回。左足で十回。左右交互に十回。更に腿にあてて十回。
 足慣らしにぽんぽんとリフティングをする。
 家を出る前にストレッチをしているし、ここまで駆け上がってくる間に体も温まった。準備運動は万全だ。
 一度、大きく蹴り上げたボールが地面に触れる瞬間に足の下で止める。
 ゴールは正面の桜の木。蕾は薄紅色を増して、今にも開花しそうになっていたけど、今日のこの寒さのせいで少し開花は遅れそうだ。
 距離は約十一メートル。ペナルティキックの距離だ。
 PKで真正面に蹴るなんてことはよっぽどじゃないとやらないけど。数歩後ろに下がってから、軽いステップから一気に右足を振り抜いた。
 パシッと小気味良い音がして、ボールは木の幹を直撃した。
 跳ね返ったボールを胸でトラップして足元に転がす。次は少しずつ立ち位置を変えて角度をつけながら、同じ場所を狙った。
 右足で、左足で。更には回転をかけて、何度も、何度も打ち込む。これを外しているようじゃ、全日本チームのMFなんて務まらない。どこからでも正確に狙えるように、足先のコントロールを研ぎ澄ませていく。
 翔の一番の持ち味は、どんな態勢からでもピンポイントで相手に合わせられるパスだった。視野が広く、スペースを見つけるのが上手い。周りの状況を冷静に判断して絶妙なクロスボールをあげられるパサーとしての能力を買われている。翔自身も自覚している。自分はゴールを狙う主役ではなく、ゴールまでのお膳立てをする演出家なのだと。
 ボールを蹴った先にいるのは―――。
 余計なことを考えたせいか、蹴り出したボールは木を逸れて薮の中へと吸い込まれていった。
「きゃあっ!」
 甲高い悲鳴。
 桜の木の陰に見慣れる女の子が蹲っていた。
「・・・誰だ、お前」
 突然のことで、謝ることも忘れて問い質していた。
 彼女は恐る恐る顔を上げる。
「え、と。ここに住んでる者なんですけど」
「住んでる?」
 そんなはずはない、と翔は益々怪訝な顔になる。
 この神社は無人ではないけれど。住んでいるのは神主の柏木一家だけだ。一家と言っても、口煩いじいさんとその息子で近所では『若様』と呼ばれている修晃の二人だけ。彼女の年は多分、翔とそう変わらない。修晃の子供にしては若すぎるし、妹がいるとも聞いたことはない。そうでなくても、幼い頃からほとんど毎日ここに来ているのに、未だかつて顔を合わせたことがないなんてことがあるはずもない。
 疑っているせいで、じっと彼女を睨むようになってしまう。
 修晃との関係を聞こうかと口を開きかけたその時、ざあっと一際強い風が吹き抜けた。
 うわっと思わず目を瞑る。
 風が収まって目を開けると、もう、そこには彼女の姿はなかった。
 狐にでも化かされたような気になって、翔は周囲を見回す。桜の木の陰にも、神社の建物の陰にもどこにもいない。
 幻、だろうか。
 裏山はこの神社がある通り、神の山として地元の人々からも崇められてきた。そのため、今も開発の手からは守られており、鬱蒼とした森が広がっている。
 ここに住んでいる、と彼女は言っていた。
 それは、もしかして。神様とか、妖怪とか? ここの神社の御神体って何だっけ?
 それとも、まさか、幽霊とか・・・?
 薮を掻き分けてボールを捜しながら、翔はそんな埒もないことを考えていた。
 昔、祖母がまだ生きていた頃。御伽噺として聞かせてくれた地元の民話。夏休みの怪談話。
 インターネットが普及する現代で、そんな話を信じたことはなかったけれど、ざわざわと騒ぐ森の音を聞きながら、ここなら不可思議なことが起こってもおかしくないのかもしれないと思ってしまう。
 ようやくボールを見つけて、手に取る。
 その重さや合皮の感触が、翔を現実に引き戻した。
「・・・・・ばかばかしい」
 非現実的なことを考えててもしかたがない。
 彼女はさっきまでここにいた。でも、どこかへ逃げてしまった。ただそれだけのこと。
 自分の中でそう割り切って、翔はまたボールを蹴りはじめた。

 一時間ほど境内でボールを蹴った後、石段をリフティングしながら下りた。
 その頃には雪はほとんど消えてしまって、日陰にひっそりと白い塊を残すだけになっていた。
 町も動き始めている。県道を走る車が増え、通り過ぎた家からは朝食の匂いが漂ってくる。
「ただいま」
 自宅に戻ると、台所から味噌汁の匂いがしていた。祖母が亡くなって久しいが、当時からずっと桐生家の朝は和食と決まっている。
「今日まで走ることないのに」
「うん、でも。やらないと体が重くなる気がして」
 食卓には三人分の朝食が並べられている。自分の指定席に座ると、母の恵美がご飯と味噌汁の碗を置いた。
「準備は? 終わってるの?」
「ほとんどの荷物は送ったから。あとはシューズとかジャージとか纏めるだけだよ」
 行儀よく合掌をして家族を待たずに食べ始めた。
 朝は家族それぞれが時間が違う。翔が朝の自主トレをしている間に、父の透は会社に出てしまう。恵美は透とは食事を共にしないで、いつも翔と食べている。
 そして、もう一人の家族。航は翔がいる間は部屋から出てこない。
 以前は食事は家族一緒に!をモットーにしていた透も、最近では何も言わなくなった。少しだけ大人びた息子を見て、少しだけ悲しみの混ざった笑顔を見せるだけだ。
 同じ家に住んでいるのに、翔と航はほとんど顔を合わせない。
 喧嘩しているわけではない。翔が話しかければ、答えてはくれる。本心を隠すように取ってつけた笑顔を浮かべていることが、翔には深く突き刺さる。
 何を隠している?
 どうして、言ってくれない?
 幾つもの疑問を投げかけたけれど、にっこりとその笑顔ではぐらかされた。
 一番、航に問いたかった質問は、ぐっと飲み込むしかなかった。
「・・・淋しくなるわね」
 じっと翔が食事する様子を見ていた恵美が、ぽつりと小さく呟いた。
「休みには帰ってくるよ」
「休みなんてほとんどないんでしょう?」
「まぁ、そうかも」
「いつかはこの町を出て行くのは避けられないんだろうけど。何も中学から寮生活なんてすることないのに」
「母さん。その話はもう終わったよ」
「わかってるわよ」
 子供の頃からやってきたスポーツを大人になっても続けられるのは、ほんの一握りだ。
 ただ楽しかったスポーツが、記録重視にされてゆく。試合に出ること、試合で上位の成績を取ること、地区大会・県大会、最後には全国から世界へ。夢見る子供は多いけれど、その夢を叶えるためには、乗り越えなければならないハードルが沢山ある。
 翔の住む町は、田舎の小さな町だった。Jリーグのチームがあるわけでもなく、その下位リーグのチームすらない。出場した大会で好成績を収めたことで、誘ってくれたチームがいくつかあった。家族と相談して、最良と思える中学校へ進学することになった。それが、たまたま全寮制の私立学校だったというだけだ。
 この先もずっと、サッカーを続けたいか?
 父はただそれだけを問うた。だから、翔は「うん」と答えた。
 そうか、と頭を撫でられて、それだけで進学先が決まった。
 小学生の子供にそんな大事な判断をさせていいのかよ、と思わないでもない。翔にも不安はある。
 でも、それ以上に。
 思いっきり、サッカーがしたい。その想いの方が強かった。
「ごちそうさま」
「大事な門出前の最後の食事が、味噌汁に鮭の塩焼きなんてねぇ。もっと豪華にすればよかったかしら?」
「そんなことないよ。美味しかった」
 食器を重ねてシンクに運ぶ。
「父さんに『行ってきます』が言えなかったな・・・」
 翔が呟くと、恵美はくすくすと笑った。
「何?」
「お父さんも出てく時に『翔に行ってらっしゃがいえなかったな』って言ってたわよ」
 似た者親子ね、とまた笑って恵美も自分の食器を重ねはじめた。

 階段を上って廊下の右が翔の部屋だ。

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