■ ■ ■ 無意識な恋お題
「待ちやがれっ!」
妖が逃げ込んだ異空間に向かって、良守が迷わずに飛び込んだ。
「バカ! 何やってんのよ!」
手を伸ばしたけどもう遅くて、良守を飲み込んだ空間の裂け目は、次の瞬間にはきれいさっぱり閉じてしまった。
目の前にあるのは、ただの壁。
手を当てて痕跡を探っても、そこからは何も読み取れなかった。
嘘、やだ・・・。
良守の無茶は、今に始まったことじゃない。
怪我したり、いなくなったり、そんなことは日常茶飯事なはずなのに。
この暗い烏森に、良守の気配がない。
それだけのことで、闇が広がっていく気がした。垣間見てしまった烏森の深淵に呑まれてしまう気がした。
「良守・・・! 良守っ!」
何度も、何度も、良守が消えた壁を、ただ叩き続けていた。
「時音ちゃん、血が出てる」
ふいに振り上げた腕が掴まれた。振り下ろそうとしても腕を掴んでいる力は圧倒的に強くて、動かすこともできない。
観念して振り返ると、困ったような顔をした正守さんが立っていた。
「正守さん・・・」
どうしてここにとは、聞かなくてもわかる。
この人は、弟へは無関心な態度を取っているが、誰よりも烏森と良守のことを気にかけている。
「痕になったらどうするんだい」
優しくそう言って、袂から塗り薬を取り出して手当てをしてくれた。
指摘されて始めて、随分と痛むことに気づいた。そんなこともわからなくなるくらいに、取り乱していたのかと思うと、少し気恥ずかしくなる。
「もう、傷ならありますから」
気を紛らわせるように、そっけなく言った。
右手の肘から手首にかけて、消えない傷痕がある。普通ならば女の子の腕にこんな大きな傷痕があれば、それを気にしないわけがないだろうけれど。この傷を隠したりしたことはない。心無い中傷をしてくる人はいたけれど、残念ながらこの傷は、私にとっては勲章なのだ。
良守を庇っての傷だから、彼が気にしていることは知っている。だからこそ尚更、私がこの傷を疎んではいけないのだ。
「また、良守が泣くよ?」
「良守はもう、泣き虫だった子供じゃありませんよ? あんまり子供扱いしてたら、良守に嫌われますよ」
「・・・うん、そうかもね」
傷の手当てを終えると、正守さんはじっとこっちを見た。
「大体、何が起こったかわかってるつもりだけど」
「あ、はい」
言われて、良守が消えたままなんだと思い出す。
良守だって結界師なんだし。こちらが茶々を入れなくても、自力で何とかするだろう。元々、そういうタイプの結界師だ。
いつもなら、放っておく。自分の始末くらい、自分でつけてもらわないと。
でも。今日に限って。どうして、こんなに気になるんだろう。
虫の知らせ?
やだ、何をバカなことを考えてるの。不吉すぎる。
「何か、変なことあった?」
私が何か気にしているということを正守さんはわかっているんだ。
そうよ。変って言えば・・・。
「・・・正守さんは、どうしてここにいるんですか?」
裏会の夜行の頭領として、上からの圧力を我が身ひとつで受け止めて、下にいる子供たちには自由にやらせている。墨村家の長男だったころから、その優しさは変わらない。
そんな正守さんだからこそ。
なぜ、どうして。今、烏森にいるの?
「・・・やっぱり、聡いね。時音ちゃんは」
じゃあ、やるか、と、正守さんは血がついた壁に手をかざした。
「時音ちゃんは時子さんみたいに、空間を作ることはできるかい?」
「何もないところに穴を開けるのは無理ですけど・・・。開いている異界への道を維持したり、閉じたりならできます」
それならば実践で祖母に学んだ。簡単に練習するということができないが、感覚は身体が覚えている。
「んじゃ。ちょっくら道を開けるから、広げてもらっていい?」
「は?」
「ほら、いくよ!」
正守さんは一気に真剣な顔になった。かざした右手の先から、ごおっと風が起こったように見えた。
「え? ちょっと・・・!」
そんなにほいほいと異界への道を開けられても困る。
「良守も自分じゃ空間を繋ぐことなんてできないから。大丈夫、アイツを取り出したらすぐ閉じるから」
取り出すって、まるで物みたいな言い草。
壁の一部が黒く歪んで、そこに異界へと繋がる穴が開いた。私はその穴を少しでも広げて、良守が通りやすいようにする。
今、私たちがいる世界とほんの少しのずれを持った異界が数多ある。
その中で、ピンポイントに良守がいる異界を見つけられるものなのだろうか。
迷いが生じると、ぐらりと空間が歪む。
「時音ちゃん、集中!」
「はいっ」
慌てて、他の事は何も考えないようにする。
ただ、良守のことだけを思った。
そこに、いる?
いるなら、さっさと戻ってきなさい。
そこは、貴方がいるべき場所じゃない。
ここが、貴方の場所でしょう?
暗闇の中に、ぱあっと光が差したような気がした。
その瞬間に正守さんが左手で念糸を伸ばした。
「うわーっ!」
かなり強引に良守の身体が、穴から飛ばされて出てきた。勢い余って、そのままグラウンドに転がっていく。
「いってーっ! もうちょっと手加減しろよな! バカ兄貴!」
「これくらいでバランス崩しててどうする? 不甲斐無い弟を持った俺の方が不幸だ」
「年上なら年上らしく、年下の者を庇うとかしろよ! 面倒なとこばっか俺にやらせやがって・・・」
ほらよ、と良守が何かを正守さんに向かって投げる。
受け取った正守さんは、ちらりとそれを検分して、懐にしまった。
二人の会話についていけず、え、と固まっていた。
なに、これ。
じゃあ、正守さんが良守に何かを頼んでいたの?
だから、良守がどこにいるかもわかっていたし、正守さんがここに来た理由もそれなの?
私一人、心配損?
力が抜けて、くたりとその場に座り込む。
「ごめんよ、時音ちゃん。本当なら、俺が来たあとにはじめるはずだったんだけど・・・」
「妖が時間なんか守るわけねーだろ」
良守は立ち上がって、袴についた土埃を掃う。
「兄貴も兄貴だぜ。時音に何の説明もしなかったのかよ?」
「説明してないのは、お前も一緒だろ?」
「・・・俺は、兄貴が来たら説明するだろうって持ってたから・・・」
ごにょごにょと最後のほうは聞き取れない。
呆然としたままの私のところまで歩いてくると、良守は「ほら」と手を差し伸べた。
そっとその手を取ると、巴投げの要領で頭上へと投げ飛ばしてやった。
バカバカバカバカ。
私の心配と、涙を返せ。
妖が逃げ込んだ異空間に向かって、良守が迷わずに飛び込んだ。
「バカ! 何やってんのよ!」
手を伸ばしたけどもう遅くて、良守を飲み込んだ空間の裂け目は、次の瞬間にはきれいさっぱり閉じてしまった。
目の前にあるのは、ただの壁。
手を当てて痕跡を探っても、そこからは何も読み取れなかった。
嘘、やだ・・・。
良守の無茶は、今に始まったことじゃない。
怪我したり、いなくなったり、そんなことは日常茶飯事なはずなのに。
この暗い烏森に、良守の気配がない。
それだけのことで、闇が広がっていく気がした。垣間見てしまった烏森の深淵に呑まれてしまう気がした。
「良守・・・! 良守っ!」
何度も、何度も、良守が消えた壁を、ただ叩き続けていた。
「時音ちゃん、血が出てる」
ふいに振り上げた腕が掴まれた。振り下ろそうとしても腕を掴んでいる力は圧倒的に強くて、動かすこともできない。
観念して振り返ると、困ったような顔をした正守さんが立っていた。
「正守さん・・・」
どうしてここにとは、聞かなくてもわかる。
この人は、弟へは無関心な態度を取っているが、誰よりも烏森と良守のことを気にかけている。
「痕になったらどうするんだい」
優しくそう言って、袂から塗り薬を取り出して手当てをしてくれた。
指摘されて始めて、随分と痛むことに気づいた。そんなこともわからなくなるくらいに、取り乱していたのかと思うと、少し気恥ずかしくなる。
「もう、傷ならありますから」
気を紛らわせるように、そっけなく言った。
右手の肘から手首にかけて、消えない傷痕がある。普通ならば女の子の腕にこんな大きな傷痕があれば、それを気にしないわけがないだろうけれど。この傷を隠したりしたことはない。心無い中傷をしてくる人はいたけれど、残念ながらこの傷は、私にとっては勲章なのだ。
良守を庇っての傷だから、彼が気にしていることは知っている。だからこそ尚更、私がこの傷を疎んではいけないのだ。
「また、良守が泣くよ?」
「良守はもう、泣き虫だった子供じゃありませんよ? あんまり子供扱いしてたら、良守に嫌われますよ」
「・・・うん、そうかもね」
傷の手当てを終えると、正守さんはじっとこっちを見た。
「大体、何が起こったかわかってるつもりだけど」
「あ、はい」
言われて、良守が消えたままなんだと思い出す。
良守だって結界師なんだし。こちらが茶々を入れなくても、自力で何とかするだろう。元々、そういうタイプの結界師だ。
いつもなら、放っておく。自分の始末くらい、自分でつけてもらわないと。
でも。今日に限って。どうして、こんなに気になるんだろう。
虫の知らせ?
やだ、何をバカなことを考えてるの。不吉すぎる。
「何か、変なことあった?」
私が何か気にしているということを正守さんはわかっているんだ。
そうよ。変って言えば・・・。
「・・・正守さんは、どうしてここにいるんですか?」
裏会の夜行の頭領として、上からの圧力を我が身ひとつで受け止めて、下にいる子供たちには自由にやらせている。墨村家の長男だったころから、その優しさは変わらない。
そんな正守さんだからこそ。
なぜ、どうして。今、烏森にいるの?
「・・・やっぱり、聡いね。時音ちゃんは」
じゃあ、やるか、と、正守さんは血がついた壁に手をかざした。
「時音ちゃんは時子さんみたいに、空間を作ることはできるかい?」
「何もないところに穴を開けるのは無理ですけど・・・。開いている異界への道を維持したり、閉じたりならできます」
それならば実践で祖母に学んだ。簡単に練習するということができないが、感覚は身体が覚えている。
「んじゃ。ちょっくら道を開けるから、広げてもらっていい?」
「は?」
「ほら、いくよ!」
正守さんは一気に真剣な顔になった。かざした右手の先から、ごおっと風が起こったように見えた。
「え? ちょっと・・・!」
そんなにほいほいと異界への道を開けられても困る。
「良守も自分じゃ空間を繋ぐことなんてできないから。大丈夫、アイツを取り出したらすぐ閉じるから」
取り出すって、まるで物みたいな言い草。
壁の一部が黒く歪んで、そこに異界へと繋がる穴が開いた。私はその穴を少しでも広げて、良守が通りやすいようにする。
今、私たちがいる世界とほんの少しのずれを持った異界が数多ある。
その中で、ピンポイントに良守がいる異界を見つけられるものなのだろうか。
迷いが生じると、ぐらりと空間が歪む。
「時音ちゃん、集中!」
「はいっ」
慌てて、他の事は何も考えないようにする。
ただ、良守のことだけを思った。
そこに、いる?
いるなら、さっさと戻ってきなさい。
そこは、貴方がいるべき場所じゃない。
ここが、貴方の場所でしょう?
暗闇の中に、ぱあっと光が差したような気がした。
その瞬間に正守さんが左手で念糸を伸ばした。
「うわーっ!」
かなり強引に良守の身体が、穴から飛ばされて出てきた。勢い余って、そのままグラウンドに転がっていく。
「いってーっ! もうちょっと手加減しろよな! バカ兄貴!」
「これくらいでバランス崩しててどうする? 不甲斐無い弟を持った俺の方が不幸だ」
「年上なら年上らしく、年下の者を庇うとかしろよ! 面倒なとこばっか俺にやらせやがって・・・」
ほらよ、と良守が何かを正守さんに向かって投げる。
受け取った正守さんは、ちらりとそれを検分して、懐にしまった。
二人の会話についていけず、え、と固まっていた。
なに、これ。
じゃあ、正守さんが良守に何かを頼んでいたの?
だから、良守がどこにいるかもわかっていたし、正守さんがここに来た理由もそれなの?
私一人、心配損?
力が抜けて、くたりとその場に座り込む。
「ごめんよ、時音ちゃん。本当なら、俺が来たあとにはじめるはずだったんだけど・・・」
「妖が時間なんか守るわけねーだろ」
良守は立ち上がって、袴についた土埃を掃う。
「兄貴も兄貴だぜ。時音に何の説明もしなかったのかよ?」
「説明してないのは、お前も一緒だろ?」
「・・・俺は、兄貴が来たら説明するだろうって持ってたから・・・」
ごにょごにょと最後のほうは聞き取れない。
呆然としたままの私のところまで歩いてくると、良守は「ほら」と手を差し伸べた。
そっとその手を取ると、巴投げの要領で頭上へと投げ飛ばしてやった。
バカバカバカバカ。
私の心配と、涙を返せ。
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