■ ■ ■ 空に散る花 09
ビールの空缶を片付けている篠原の姿を、若宮はベッドに横になって眺めていた。
このアパートの主は篠原だけれども、若宮が月に1・2度、転がり込んだときは、こうしてベッドを譲ってくれる。自分はというと、テーブルをどかしてソファに大きな体を沈める。
あまりにも正反対な性格だから、よくどうして仲が良いのかわからないと言われた。
中学の時は、一方的に若宮が声をかけていた。篠原はうるさそうに睨みはしたけれど、声を上げて追い払うようなことはしない。何を言っても、そうやって受け流してくれているようで、楽だった。正反対と言うけれど。本当はとてもよく似ている。正反対に見えるということは、それは外面しか見ていないということを意味する。
本心を隠すために黙り込んだ篠原と、本心を隠すために御託を並べる若宮と。何も言わない篠原の言いたいことが若宮には理解できたし、過度な装飾を凝らした若宮の言葉の真意を篠原はずばっと言い当てる。今となっては、どちらがどちらに依存しているのかわからない。
片づけを終えた篠原は、ピッとパソコンの電源を入れた。
「ハル、寝ないの?」
「悪い。起こしたか?」
「最初から寝てないよ」
うとうととし始めて、寝るならベッドで寝ろといわれて、そろそろと布団に潜り込んだけれど、まだ眠ってはいなかった。
「仕事、残ってんの?」
「午後が場所取りで潰れたからな」
「ああ、そっか」
話しながらも、篠原の手は止まらない。カシャカシャとリズミカルなキーボードの音が心地良い。部屋の明かりはすでに消されていて、パソコンラックにクリップ状に留められた間接照明だけだ。
「そういえば、今日はどうして返事くれたわけ?」
「・・・だから、相模がうるさかっただけだ」
「それだけかなぁ・・・? 写真まで送ってくるとは思わなかったよ」
「・・・忘れてくれ」
「忘れない」
「忘れろ」
「俺に指図する権利は、俺にだけあるんだよ」
うわー。偉そうなこと言ってる。自分でもそう思いながら、反応を待つ。多分、篠原はこれ以上、強くは言わない。
「・・・もう、寝ろ」
やっぱりか。うん、そうだな。この辺が引き際か。
若宮は返事の変わりに、掛け布団を引き上げて寝返りを打った。
篠原の部屋は、今、若宮が住んでいる研究所に付属する寮より居心地がいい。寮だと、どうしても仕事の延長線上になってしまう。気心が知れた同僚もいるけれど、100%寛げるはずもない。
素のままの自分でいられる。
両親にすら作った自分を見せている若宮にとっては、唯一、気を抜ける場所だった。
子供の頃から、家の中に自分の居場所がなかった。
1歳違いの弟が病弱で、入退院を繰り返していた。母は弟につきっきりで、父は治療費を稼がなきゃならないと、残業ばかりしていた。
テストで100点を取っても、陸上で一等賞を取っても。
「良かったわね」
と、一言で片付けられてしまう。
運動会も、授業参観も、文化祭も。他のクラスメイトたちが両親と楽しそうに笑っているのを、1人、眺めているだけだった。
「弟が入院してて」
不幸を盾にすれば、周りは納得する。
そうか、可哀想に。
大変だな。
そんな眼で見られる。
だが、同情が欲しいわけじゃない。同情なんかされたくない。
強がりな性格が、自分は1人でも平気さという仮面を被ることを覚えさせた。まだ親に甘えてるのか、と大人ぶった態度を取って、逆にクラスメイトたちを落とすことで自分の優位を確立させていた。
帰れと放り出されるぎりぎりまで学校にいた。帰りたくないばっかりに、部活にも真面目に参加した。部活のない日は、担任の科学教師がいる理科準備室に入り浸っていた。
家に帰っても、誰もいない。
真っ暗な自宅に自分で鍵を開けて入るときの、あの虚しさは今でも若宮の心に深く刻まれている。
東京に出てきたとき、ホテルではなく篠原のアパートに転がり込むのは、そこに明かりがついていて、自分を待っている篠原がいてくれるから。
中学3年生の秋のこと。
高校受験を控えて、志望校を決定するために三者面談が行われた。
事前に、母親に日時を伝え、学校に来てくれるようにお願いしていた。
だが、指定の時間になっても母親は現われなかった。何の連絡もなく、担任も事故だとかそんな心配をしてくれたけれど、若宮には母が来ない理由がわかっていた。
多分、弟の具合が悪くなったんだ。そうなるとあの人は、俺のことなんて眼中になくなる。
「遅れてるだけかもしれないし、順番を変えるから若宮はもう少し廊下で待ってなさい」
「・・・はい」
待ったって、絶対に来ない。
若宮はそう確信していたけれど、担任にそれを告げることもできず、廊下に並べられた待合用の椅子に座った。
結局、日が暮れて最後の生徒が面談を終えても、母親は姿を見せなかった。
「きっと、弟の具合が悪いんだと思います」
「そうか。弟君、入院してるんだったな」
「はい。母は付き添って病院にいるんだと思います」
机を教室の後方へ片付けて、広く開けられた教室に並べられた机が3つと椅子が3つ。1つは空席のままだ。
「・・・まぁ、お前は成績もいいし。内申も悪くない。この辺の高校なら、希望すればどこだって合格すると思えるがな・・・」
担任は若宮が提出した志望校を書いたプリントを眺めていた。
「本当に、第一志望、ここでいいのか?」
「はい」
うーんと唸り声をあげる。
若宮が書いた高校は、公立高校の中で自宅から最も近い学校だった。
私立に通わせてもらえるほど、家計に余裕があるとは思えない。弟の病名が何なのか教えられていなかったけれど、年の半分も病院で過ごさなければならないのだから、それなりの病気なのだろう。
別に勉強が好きなわけでもない。それこそ、中卒で働いてもいいとさえ思っていたくらいだ。父親に説得され、高校だけは絶対に出ろと言われたから、進学することにしたが、一番近い高校を選んだのは、交通費がかからない場所にしようと思ったからだ。
「お前がそれでいいというなら、俺には何とも言えないんだがな」
もっと上を目指せるのに。そう言いたいのだろう。学力的には明らかにランクの低い高校だ。
「・・・勉強はどうだっていいんです。手に職をつけて、早く家を出たいんです」
「一応、本人の意思を尊重することにはしているが。まだ、願書を出すまで時間がある。ご両親ともきちんと話し合いなさい」
両親よりも担任の方が若宮のことを考えてくれている。
そんな両親の元で暮らすことすら、窮屈になっていた。
世間から見れば、自分はまだ親の庇護を受ける中学生でしかない。大人としては認められない。
でも、高校を卒業すれば。そうすれば、成人ではないとしても、世間では大人として認められる。
あと3年。
それだけ、我慢すればいいんだ。
担任に礼を言って、岐路につく。
冬が間近に迫っていることを思い出させるように、冷たい風が頬を撫でていく。
病院に寄ろうかとも思ったが、恨みがましく母親を見てしまいそうで、結局、自宅へと戻った。
案の定、自宅は真っ暗なままで、ポケットから取り出した鍵で中へ入った。
玄関、廊下、リビング、キッチン、階段、自分の部屋・・・。
歩きながら、通った場所の電気をかたっぱしから付けていく。暗闇が怖いわけではないけれど、自分が1人だということの象徴に見えて、無意味に明るさを求めた。
まるで、自分だな。
不幸を背負って暗くなるのがいやで、空元気とわかっていても笑顔を振りまいてバカ騒ぎする。誰も、陰にあるものなんて、見えてないんだ。
普段ならばキッチンのダイニングテーブルに書置きや冷めた夕飯が置いてあるのだけれど。今日はそのどちらもなかった。よっぽど慌てて病院へ行ったのだろう。
冷蔵庫を開いて、中に残ったもので適当に夕飯を作る。こんなことに慣れた中学生というのも、淋しいものだ。
リビングでテレビをつけると、お笑い番組をやっていた。
芸人たちが話すたびに、会場内はどっと笑いに包まれる。
「・・・つまんねー」
呟いた声には、感情がない。
いつから、お笑い番組がつまらなくなったんだろう。
いつから、心から笑っていないだろう。
食器を片付けることも忘れて、そのままぼんやりとソファで膝を抱えていた。
あまりに帰宅が遅いから、両親の携帯には何度も電話をかけていたが、ずっと繋がらないままだった。病院内にいるから、電源を切っているんだろうと思っていた。
もしかして―――。
よっぽど弟の具合が悪いのなら、若宮のことも呼び出すだろう。
そう思うと、子機を手放すことができなくて、震えながらずっと握り締めていた。
寒い。
身震いと共に眼が覚めた。
一瞬、自分が今、どこにいるのかわからなくて、体を捩って室内を見回した。
すると、額に乗せられていたらしいタオルが顔の前にずり落ちてきた。
ハルの部屋だ・・・。
確認して、一息つく。
どれくらい眠っていたのだろう。パソコンの電源はすでに落とされていて、明かりも消えていた。ソファで寝ているだろう篠原の姿を探して視線を向けると、そこには誰もいなかった。
「・・・ハル?」
ワンルームのアパートで。隠れるところなんてない。他に行く場所があるとしたらトイレかバスルームくらいだ。だが、しんと静まり返ったアパート内に篠原の気配はなかった。
何時だろう。
枕元に置いたはずの携帯を探そうとして、自分がその携帯を握り締めていることに気付いた。
ああ、だから、あんな夢を見たのか。
あの日、両親との繋がりを求めて子機を握り締めていたように、今でも携帯電話を手放すことができない。これを失くしたら、人との繋がりが切れてしまう。誰の助けも拒んでいるくせに、完全に1人になることをどこかで恐れていた。
篠原はどこかに出かけたのだろうか。携帯を開いて時間を見ると、午前2時。丑三つ時だ。こんな時間にどこへ?
手の中の携帯を見つめる。
あいつ、持って出てるかな?
自分と同じように人を拒み続ける篠原は、携帯電話を携帯しない男の筆頭だ。何度、それじゃあ意味がないとぼやいただろうか。
恐る恐る、通話履歴から篠原の番号を呼び出して、通話ボタンを押す。
コール音が鳴り出しても、室内からは着信音が聞こえなかった。良かった、持って出てる。
数コールで、「はい?」と不機嫌そのものな声が聞こえた。
「ハル?」
『眼、覚めたのか?』
「今、どこ?」
篠原の問いかけを無視するように、問いただす。
額に乗せられていたタオルからもわかるように、自分はどうやら熱があるらしい。篠原もそれに気付いている。それなら尚更、そばにいるべきじゃないか。
『角のコンビニだ。冷却シートが切れてたから、買ったところだ』
大丈夫。
ハルは、俺を見捨てたりしない。
いつだって、携帯はハルに繋がる。
「・・・早く、戻れよ」
自分のために買物に出た篠原に対して、その口のききようはどうなんだと自己分析しつつも。こんなやり方でしか甘えることができない自分を呪う。
『・・・五分待て』
冷たく言い切られて、通話が途切れた。
でも。火照った体にはその冷たさが有難かった。
このアパートの主は篠原だけれども、若宮が月に1・2度、転がり込んだときは、こうしてベッドを譲ってくれる。自分はというと、テーブルをどかしてソファに大きな体を沈める。
あまりにも正反対な性格だから、よくどうして仲が良いのかわからないと言われた。
中学の時は、一方的に若宮が声をかけていた。篠原はうるさそうに睨みはしたけれど、声を上げて追い払うようなことはしない。何を言っても、そうやって受け流してくれているようで、楽だった。正反対と言うけれど。本当はとてもよく似ている。正反対に見えるということは、それは外面しか見ていないということを意味する。
本心を隠すために黙り込んだ篠原と、本心を隠すために御託を並べる若宮と。何も言わない篠原の言いたいことが若宮には理解できたし、過度な装飾を凝らした若宮の言葉の真意を篠原はずばっと言い当てる。今となっては、どちらがどちらに依存しているのかわからない。
片づけを終えた篠原は、ピッとパソコンの電源を入れた。
「ハル、寝ないの?」
「悪い。起こしたか?」
「最初から寝てないよ」
うとうととし始めて、寝るならベッドで寝ろといわれて、そろそろと布団に潜り込んだけれど、まだ眠ってはいなかった。
「仕事、残ってんの?」
「午後が場所取りで潰れたからな」
「ああ、そっか」
話しながらも、篠原の手は止まらない。カシャカシャとリズミカルなキーボードの音が心地良い。部屋の明かりはすでに消されていて、パソコンラックにクリップ状に留められた間接照明だけだ。
「そういえば、今日はどうして返事くれたわけ?」
「・・・だから、相模がうるさかっただけだ」
「それだけかなぁ・・・? 写真まで送ってくるとは思わなかったよ」
「・・・忘れてくれ」
「忘れない」
「忘れろ」
「俺に指図する権利は、俺にだけあるんだよ」
うわー。偉そうなこと言ってる。自分でもそう思いながら、反応を待つ。多分、篠原はこれ以上、強くは言わない。
「・・・もう、寝ろ」
やっぱりか。うん、そうだな。この辺が引き際か。
若宮は返事の変わりに、掛け布団を引き上げて寝返りを打った。
篠原の部屋は、今、若宮が住んでいる研究所に付属する寮より居心地がいい。寮だと、どうしても仕事の延長線上になってしまう。気心が知れた同僚もいるけれど、100%寛げるはずもない。
素のままの自分でいられる。
両親にすら作った自分を見せている若宮にとっては、唯一、気を抜ける場所だった。
子供の頃から、家の中に自分の居場所がなかった。
1歳違いの弟が病弱で、入退院を繰り返していた。母は弟につきっきりで、父は治療費を稼がなきゃならないと、残業ばかりしていた。
テストで100点を取っても、陸上で一等賞を取っても。
「良かったわね」
と、一言で片付けられてしまう。
運動会も、授業参観も、文化祭も。他のクラスメイトたちが両親と楽しそうに笑っているのを、1人、眺めているだけだった。
「弟が入院してて」
不幸を盾にすれば、周りは納得する。
そうか、可哀想に。
大変だな。
そんな眼で見られる。
だが、同情が欲しいわけじゃない。同情なんかされたくない。
強がりな性格が、自分は1人でも平気さという仮面を被ることを覚えさせた。まだ親に甘えてるのか、と大人ぶった態度を取って、逆にクラスメイトたちを落とすことで自分の優位を確立させていた。
帰れと放り出されるぎりぎりまで学校にいた。帰りたくないばっかりに、部活にも真面目に参加した。部活のない日は、担任の科学教師がいる理科準備室に入り浸っていた。
家に帰っても、誰もいない。
真っ暗な自宅に自分で鍵を開けて入るときの、あの虚しさは今でも若宮の心に深く刻まれている。
東京に出てきたとき、ホテルではなく篠原のアパートに転がり込むのは、そこに明かりがついていて、自分を待っている篠原がいてくれるから。
中学3年生の秋のこと。
高校受験を控えて、志望校を決定するために三者面談が行われた。
事前に、母親に日時を伝え、学校に来てくれるようにお願いしていた。
だが、指定の時間になっても母親は現われなかった。何の連絡もなく、担任も事故だとかそんな心配をしてくれたけれど、若宮には母が来ない理由がわかっていた。
多分、弟の具合が悪くなったんだ。そうなるとあの人は、俺のことなんて眼中になくなる。
「遅れてるだけかもしれないし、順番を変えるから若宮はもう少し廊下で待ってなさい」
「・・・はい」
待ったって、絶対に来ない。
若宮はそう確信していたけれど、担任にそれを告げることもできず、廊下に並べられた待合用の椅子に座った。
結局、日が暮れて最後の生徒が面談を終えても、母親は姿を見せなかった。
「きっと、弟の具合が悪いんだと思います」
「そうか。弟君、入院してるんだったな」
「はい。母は付き添って病院にいるんだと思います」
机を教室の後方へ片付けて、広く開けられた教室に並べられた机が3つと椅子が3つ。1つは空席のままだ。
「・・・まぁ、お前は成績もいいし。内申も悪くない。この辺の高校なら、希望すればどこだって合格すると思えるがな・・・」
担任は若宮が提出した志望校を書いたプリントを眺めていた。
「本当に、第一志望、ここでいいのか?」
「はい」
うーんと唸り声をあげる。
若宮が書いた高校は、公立高校の中で自宅から最も近い学校だった。
私立に通わせてもらえるほど、家計に余裕があるとは思えない。弟の病名が何なのか教えられていなかったけれど、年の半分も病院で過ごさなければならないのだから、それなりの病気なのだろう。
別に勉強が好きなわけでもない。それこそ、中卒で働いてもいいとさえ思っていたくらいだ。父親に説得され、高校だけは絶対に出ろと言われたから、進学することにしたが、一番近い高校を選んだのは、交通費がかからない場所にしようと思ったからだ。
「お前がそれでいいというなら、俺には何とも言えないんだがな」
もっと上を目指せるのに。そう言いたいのだろう。学力的には明らかにランクの低い高校だ。
「・・・勉強はどうだっていいんです。手に職をつけて、早く家を出たいんです」
「一応、本人の意思を尊重することにはしているが。まだ、願書を出すまで時間がある。ご両親ともきちんと話し合いなさい」
両親よりも担任の方が若宮のことを考えてくれている。
そんな両親の元で暮らすことすら、窮屈になっていた。
世間から見れば、自分はまだ親の庇護を受ける中学生でしかない。大人としては認められない。
でも、高校を卒業すれば。そうすれば、成人ではないとしても、世間では大人として認められる。
あと3年。
それだけ、我慢すればいいんだ。
担任に礼を言って、岐路につく。
冬が間近に迫っていることを思い出させるように、冷たい風が頬を撫でていく。
病院に寄ろうかとも思ったが、恨みがましく母親を見てしまいそうで、結局、自宅へと戻った。
案の定、自宅は真っ暗なままで、ポケットから取り出した鍵で中へ入った。
玄関、廊下、リビング、キッチン、階段、自分の部屋・・・。
歩きながら、通った場所の電気をかたっぱしから付けていく。暗闇が怖いわけではないけれど、自分が1人だということの象徴に見えて、無意味に明るさを求めた。
まるで、自分だな。
不幸を背負って暗くなるのがいやで、空元気とわかっていても笑顔を振りまいてバカ騒ぎする。誰も、陰にあるものなんて、見えてないんだ。
普段ならばキッチンのダイニングテーブルに書置きや冷めた夕飯が置いてあるのだけれど。今日はそのどちらもなかった。よっぽど慌てて病院へ行ったのだろう。
冷蔵庫を開いて、中に残ったもので適当に夕飯を作る。こんなことに慣れた中学生というのも、淋しいものだ。
リビングでテレビをつけると、お笑い番組をやっていた。
芸人たちが話すたびに、会場内はどっと笑いに包まれる。
「・・・つまんねー」
呟いた声には、感情がない。
いつから、お笑い番組がつまらなくなったんだろう。
いつから、心から笑っていないだろう。
食器を片付けることも忘れて、そのままぼんやりとソファで膝を抱えていた。
あまりに帰宅が遅いから、両親の携帯には何度も電話をかけていたが、ずっと繋がらないままだった。病院内にいるから、電源を切っているんだろうと思っていた。
もしかして―――。
よっぽど弟の具合が悪いのなら、若宮のことも呼び出すだろう。
そう思うと、子機を手放すことができなくて、震えながらずっと握り締めていた。
寒い。
身震いと共に眼が覚めた。
一瞬、自分が今、どこにいるのかわからなくて、体を捩って室内を見回した。
すると、額に乗せられていたらしいタオルが顔の前にずり落ちてきた。
ハルの部屋だ・・・。
確認して、一息つく。
どれくらい眠っていたのだろう。パソコンの電源はすでに落とされていて、明かりも消えていた。ソファで寝ているだろう篠原の姿を探して視線を向けると、そこには誰もいなかった。
「・・・ハル?」
ワンルームのアパートで。隠れるところなんてない。他に行く場所があるとしたらトイレかバスルームくらいだ。だが、しんと静まり返ったアパート内に篠原の気配はなかった。
何時だろう。
枕元に置いたはずの携帯を探そうとして、自分がその携帯を握り締めていることに気付いた。
ああ、だから、あんな夢を見たのか。
あの日、両親との繋がりを求めて子機を握り締めていたように、今でも携帯電話を手放すことができない。これを失くしたら、人との繋がりが切れてしまう。誰の助けも拒んでいるくせに、完全に1人になることをどこかで恐れていた。
篠原はどこかに出かけたのだろうか。携帯を開いて時間を見ると、午前2時。丑三つ時だ。こんな時間にどこへ?
手の中の携帯を見つめる。
あいつ、持って出てるかな?
自分と同じように人を拒み続ける篠原は、携帯電話を携帯しない男の筆頭だ。何度、それじゃあ意味がないとぼやいただろうか。
恐る恐る、通話履歴から篠原の番号を呼び出して、通話ボタンを押す。
コール音が鳴り出しても、室内からは着信音が聞こえなかった。良かった、持って出てる。
数コールで、「はい?」と不機嫌そのものな声が聞こえた。
「ハル?」
『眼、覚めたのか?』
「今、どこ?」
篠原の問いかけを無視するように、問いただす。
額に乗せられていたタオルからもわかるように、自分はどうやら熱があるらしい。篠原もそれに気付いている。それなら尚更、そばにいるべきじゃないか。
『角のコンビニだ。冷却シートが切れてたから、買ったところだ』
大丈夫。
ハルは、俺を見捨てたりしない。
いつだって、携帯はハルに繋がる。
「・・・早く、戻れよ」
自分のために買物に出た篠原に対して、その口のききようはどうなんだと自己分析しつつも。こんなやり方でしか甘えることができない自分を呪う。
『・・・五分待て』
冷たく言い切られて、通話が途切れた。
でも。火照った体にはその冷たさが有難かった。
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